父親は戦記物が好きで家には欧州戦線、太平洋戦争、アフリカ戦線、傭兵部隊の活動など多くの本がありました。
父親は、元戦車兵であったためか、戦車と名のつく本をかなり集めていた記憶があります。
写真集を見せてもらった時、当時の日本軍の戦車に比べ、ドイツ軍とソ連軍の戦車の完成度に驚いた記憶があります。
どちらかというと、米軍の戦車は格好が悪く好きになれないという印象を持ちました。
父親の影響か、中学生の頃から私も戦記物を読むようになりました。
特に一兵士の心の動きと戦闘の実相の書かれたものを好んで読んでいました。
その時よく目にした内容は、中国大陸での旧軍の戦闘の時、ここぞという時に軽機(軽機関銃)がジャムって弾が出ずに損害を受けてしまい、日本の軽機関銃の性能はよくないということでした。
父親の薦めで防衛大学校へ入学をして、卒業後は陸上自衛隊の普通科へ進みました。
小隊長時代は、64式小銃と62式機関銃が普通科の主力装備でした。
2000年近くまでほとんど他国の銃の性能については知ることはありませんでした。
当時は銃関係はもうこれ以上進歩しない分野の物であるという話を教育などで受けていたからです。
そのため、どの国の銃もたいした差はないというのが当時の状況でした。当然、自分達が手にしている自衛隊の銃と機関銃は、世界でも最高のレベルにあるものと信じて使用していました。
しかし、BOCで射撃の教育の期間、毎日、機関銃や小銃射撃に明け暮れていた時、実弾を撃つと62式機関銃のバネが伸びてしまい単発しか出ない状態にすぐなるのを経験し、軽機の信頼性の話が頭をよぎりました。
武装障害走の訓練をしている時、壕の中へ飛び下り、また壕を登って前進する場面で、床尾板(肩づけをするところ)を地面にやや強く叩きつけた時に、「ガシャン」と撃鉄が落ちたのです。実弾が入っていれば当然暴発です。
防御で穴を掘り、雨で銃が濡れて3日ほどすると、銃が真っ赤に錆びていて、連発ができず槓桿を一回一回引かないと弾が出ない状態になりました。
この時から、小銃と機関銃は他国と後れをとっていたということを3部長時代に実感しました。小銃擲弾も、グレネードランチャーではなく、銃の先に擲弾を装着し、撃っては装着するような状態でした。
個人装備火器と隊員の個人装備の質の向上が現在も急務です。